圓勝寺紹介

概要

【創建】建仁元年(1201年)

【開基】河内国 橘姓の一族 関谷六郎正善

【本尊】阿弥陀如来像 (伝恵心作)

【寺宝】

火中輪光の阿弥陀如来像 (南北朝時代)

光明本尊金泥九文尊號

仏舎利(7粒) のちに本願寺に返還

覚如上人筆 和讃二首

蓮如上人筆 自画像

蓮如上人筆 和讃一首

蓮如上人筆 名號

蓮如上人筆 消息

親鸞聖人等身御影

准如上人裏書 太子七高僧

徳力善雪筆 釋迦如来図

雪舟筆 寒山拾得繪双幅

歎異抄古写本

歴史

美濃の大野・本巣両郡の領主にて、大野郡上秋の庄、数屋村(旧糸貫町)に居住。

上洛して法然上人に帰依し、九条家旧殿(大谷庵)にて法然上人より賜った阿弥陀如来像をご本尊として念仏三昧の日々を送った。

その後、親鸞聖人の弟子に付属され、建仁元年(1201年)に数屋村に帰国後一寺を建立し、大谷山圓勝寺と号す。

第3世 善徳住職の時代、本願寺第3世覚如上人より阿弥陀如来像を賜った。

第9世 善勝住職の時代に、浄土真宗本願寺勢力と織田信長が争う石山合戦が起こり、圓勝寺も消失。ご本尊ほか寺宝は、善勝の妻の機転により親戚関係にあたる高野山松の坊(現在の本覚院)愛誉上人に預けられていたため戦禍を逃れることができた。その後、高野山も信長の火攻めに遭ったが、阿弥陀如来像は難を逃れることができ、「火中輪光の阿弥陀如来像」と呼ばれるようになった。

天正10年(1582年)6月13日、石山合戦に参戦していた善勝は、信長の家臣であった根尾右京乃介に追われ、三ノ段(旧根尾村長嶺)で打ち首となった。右京は恩賞に預かろうと首を持ち日当村(現本巣市)まで来たところで信長の死を知らされたため、根尾川に投げ捨てた。(※本能寺の変は同年6月2日) 現在、その場所は「坊主落とし」という史蹟となっている。

顕如上人(浄土真宗本願寺派第11世宗主)より、善勝などの功績に対して「蓮如上人直筆の御真影」「顕如上人ご使用の袈裟」「顕如上人ご使用のお念珠」を賜った。

天正11年(1583年)、見延一色に圓勝寺を移した。

第11世 善超住職の時代、元和3年(1617年)に金原に遷し、現在に至る。

第14世 善空住職の時代、元禄8年8月2日、高野山の寂性阿闍梨よりで「火難除けの仏さま」として信仰を得ていた阿弥陀如来像が圓勝寺に返還された。

第21世 慈信住職の時代、元治元年(1864年)12月2日、水戸浪士の武田耕雲斎率いる天狗党が300人宿泊、12月4日には天狗党を追討する幕府追討軍御目付の江原桂介率いる幕軍300名が宿泊した。この日には、薩摩藩士の中村半次郎(桐野利秋)が圓勝寺に宿泊していた武田耕雲斎や藤田小四郎を訪れて面会していたとも言われている。

文化12年(1815年)、本堂が火災で消失。

第22世 慈眼住職の時代、消失した本堂を建立したが、明治24年(1891年)の濃尾地震にて倒壊。大正5年(1916年)に再建立した。その落慶法要から「圓勝寺雅楽会(金原雅楽会)」が誕生した。

第24世 感月住職の時代、終戦後荒廃した本堂、庫裡、山門を大修復した。

第25世 正信住職の時代、書院改築、鐘楼修復、庫裡修復を行った。また、本堂の大修復に着手するも、完成間近での往生となった。

正信は本願寺派総長、龍谷大学理事長、岐阜県仏教界会長を歴任した。

第26世 行信住職の時代、本堂の大修復が完了した。


以上、略史ではありますが、800年を越える歴代住職のご苦労とご門徒の熱きご懇念のたまものの歴史であります。

住職あいさつ

第26世住職 橘行信 

執筆中



歴代住職